小説・映画で感動して泣いたことがない僕は感受性が低いのだろうか

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「あの映画まじ泣けるよね〜」

「この小説感動してボロクソ泣いたわ」

名作と呼ばれる映画・小説の感想にはこう言った声が多い。

でも僕は20年間生きてきて映画・小説といった創作物で泣いたことがない。

こんな僕は感受性・共感性が低いのだろうか?

 今まで泣いたこと

映画・小説などの創作物で泣いたことがないだけで、泣いたことは普通にある。

親に怒られた時、部活で悔しくかった時、引退した時、試合で負けた時、卒業式、などなど。

最近でいえば推しメンのななみんが卒業した時のライブの映像見て泣いたぐらいだ。

感情の起伏は小さくないしむしろ大きいほう。

ではなぜ映画・小説で泣けないのか?

泣けない理由は”リアリティの程度”

答えは”リアリティの程度”だった。

自分に関連することや身近なこと、つまりリアリティの程度が高いことには感情移入できるし、共感もできる。

ななみんはアイドルであり距離感は遠いものの実際に存在するし、卒業・引退によりテレビで見れないというリアリティがある。

一方創作物である映画・小説にはリアリティが低い。

もちろん演技が上手かったり、情景描写が細かかったりすれば感情はそれなりに動くし、”感動”はしている。

しかし、あと一歩のところでどうしても「製作者はここで泣かせにきてるんだろうなー」と俯瞰視点で見てしまう自分がいるのだ。

「ここで泣いたら会議室で泣かせようと話しているおっさんたちの思う壺だ・・・!」

僕はそんなひねくれ者。

そう考えるとどうにも冷めてしまう。

二十四時間テレビこそ”作られた感動”の権化

特にこれを感じるのが二十四時間テレビ。

毎年芸能人が謎にマラソンしてるけどあれなんなんですかね。

走りきったことに関していえば僕にはできそうもないし本当にすごいと思う。

でも番組製作者サイドから視聴率のために無理やり走らされているだけなのにあたかも自分から決意して走ったように編集し、みんなで「おめでとう」と言って。

感動セールスでしかない。

それに感動してみる人がいるからこそ続いているんだろうけど。

早くなくなんないかな←

泣ける人はすごいけど強要しないで

泣いてる人を見て「あいつら製作者の思い通りじゃん、ぷぷ」みたいなことを思うほどはひねくれてはいない。

創作物にそこまでリアリティを感じ感情移入して泣けることは純粋にすごいと思う。

しかし「泣けないことは悪だ」 のように主張し、泣くことを強要しないでいただきたい。

別に好きで泣いてないわけじゃないし、なんなら泣けないのにそれを「感受性が低い」「共感性がない」「薄情」と中世の魔女狩りさながらに糾弾する人さえいる。

確かに泣くという行為は感情を伝えるのに便利なツールだ。

映画の後に泣いている人を見たら「この人は泣くほどに感動したんだな」と一目でわかる。

でも泣くことだけが感情の豊かさを表すものではない。

見えない部分では様々なことを考え自分の過去と照らし合わせたりして新たな決意を固めているかもしれない。